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元通りのくらしに戻してほしいだけです

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 陸前高田の商店街、がれきの中に、お店を彩っていたであろう電飾や、ご飯茶わん、CDが埋もれていました。
 道路の縁石にぽつんと置かれたステンレスの小さなやかん。ドールハウスのやかんのような小ささでした。ピカピカ輝いて、なぜ置かれていたのかわかりませんが、持ち主の手に戻るといいなと思いました。
 一言で、がれきといいますが、そのどれもが、そこに生きて暮らしていた人々の大切なもの…津波に流されてしまった方々の生きたあかしなのです。
 日が経つにつれ、また高田に行ってみたいという思いが強くなってきました。
 市長さんが言っていました。「元通りのくらしに戻してほしいだけなのです。」
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by yoko_sato_jcp | 2011-05-30 22:20

陸前高田・仙台に・・・共産党市議団被災地救援に

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ここに平和な日常生活がありました。

 5月24日から26日にかけて、市議団5名と地区役員のCさんとで、陸前高田、仙台に救援に行ってきました。
 事前に「しんぶん赤旗」に救援物資と募金の訴えを連日行い、また街頭でも募金を募ったところ、お米200キロ以上、雨合羽、作業着、食器、なべ、などがたくさん集まり、自家用車3台で、現地に向かいました。
 5月の東北は、新緑の季節。東北道を行くと、そこここに紫のヤマフジや、桐の花が咲いていました。
 陸前高田の前市長の中里長門さんは共産党員であり、かつて町田で仕事をしていて党の地区役員もしていた関係で、つながりも深い方です。また中里さんの後を引き継いで、2月に市長になったばかりの戸羽さんは町田で高校まで過ごされた方ですし、ご家族も鶴川にお住まいです。
 北上に宿をとり、翌朝早くに北上を出発。2時間弱で陸前高田に到着しました。最初に中里さんのお宅に伺い、党市委員会への激励の寄せ書きを手渡しました。中里家は高台にあるため被災を免れたそうです。裏山は気仙杉という良質な杉の産地です。どこにも地震のあとを物語るようなものは見えませんでした。
 しかし陸前高田市議の藤倉さんの案内で被災地へ車を走らせた瞬間、言葉を失いました。
 ほんの少し坂道を下っただけで、見えてきたのは、がれきの山。一面土色の景色でした。
 陸前高田市は、人口2万4246人の市でした。3月11日の津波で、市の中心部は市庁舎もろとも破壊され、8068世帯中3845世帯が被災し、約1000人が亡くなり、いまだに700人が行方不明です。市の職員も3分の1が死亡、行方不明となっています。市役所前にあった教育委員会におられた方はほとんど亡くなられたと聞きました。市長は、市役所の屋上で、職員や市民と一晩過ごし、ヘリコプターで救助されたそうです。自宅が流され奥様は亡くなられたとのこと。
 及川一郎共産党市議は地震から50日目に遺体で発見されたそうです。7万本の松原はたった一本の松を残してあとかたもなくなり、4日後にオープンするはずだった野球場の照明が4本残っていました。
 写真は、党市委員会があった建物です。まっすぐ海に行く道路があり、海に面して千昌夫のホテル(今は市のホテル)が見えました。一面のがれきに埋もれているそこには、商店があり、銀行があり、保育園がありました。人々のくらしの営みがありました。何も無くなってしまったのです。事実を受け入れることができませんでした。
 広田湾に面して、カキとわかめの養殖が盛んだった町、豊かな海はすべてを奪い尽くしました。
 藤倉市議の案内で、高田をくまなく見せていただきました。そして、町田から持って行った物を軽トラの荷台に積んで、仮設住宅に向かいました。一軒一軒お訪ねして、ビラを配り、移動物資供給所(?)に来ていただきました。お米、野菜、生理用品どれも大変喜ばれました。
 最後に中学校の体育館の避難所に伺いました。学校の玄関前で、大阪府警の若いお巡りさんが子どもたちと遊んでいるのが印象的でした。お巡りさんが子どもに帽子を貸してやったり、子どもが摘んできた花をうけとったり。子どもは避難所で人が多いから元気そうに見えるけど、どんな思いでいるのかと、胸が熱くなりました。
 たった一日の活動でしたが、現実を知り、現実とと向き合うことがどれほど大事かということを強く感じました。
 その夜は仙台に行き、翌日、党宮城県委員会を訪れ書記長の五島さんにお見舞いを託しました。五島さんは以前町田に住んでいて、党町田地区の役員をされていた方です。
 日本共産党は全国の党組織から被災地支援を行っています。これからも息長い取り組みになることでしょう。時々で支援の中身も変わっていきます。復興は10年、20年という時間が必要かもしれません。今できることは何か、考えながら私たちも支援を続けていきたいと思います。
 帰りに、仙台市宮城野区、若林区を見てきました。田んぼが広がっていたであろう広大な仙台平野。壊れた建物の陰に、枯れた花束がたむけられていました。

 これらはほんの一部です。ようやく、報告できるまでに気持ちが前に向かいました。あってはならないことが、現実に起きた…自分自身がその現実にこれからどう向き合い、支援していくのか・・・
  
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by yoko_sato_jcp | 2011-05-29 17:59

3年G組 出席番号1番  I・I君のこと

 今年のメーデーは、三多摩は井の頭公園で行われました。
前日から、雨との予想でしたが、とんでもない、大風が吹き荒れました。目も開けていられないくらいの砂ほこりの中、文化行事から始まって笠井亮衆議院議員のあいさつや、争議団の紹介、労働組合の決意表明や、障害者作業所の皆さんの登壇がありました。
 
 プログラムの進行する中、強風のもと、ビニールシートに座っていると、話しかけてきた人がいました。私の旧姓を知っている人なので、立川の人かと一瞬思いましたが、次の瞬間「あっ」と声をあげ、記憶は50年も前に一気に戻りました。
 
 私の目の前に立っていたのは、高校時代の同級生I・I君でした。山岳部で頑張っていた人でしたが、大学を出てから、大手の建設会社に就職し、同じく同級だった、私とも仲の良かったAさんと結婚し、府中に家を構え、幸せに暮らしていましたが、大手建設会社を早期退職し、次の仕事先で頑張っているときに、脳梗塞で倒れたのだそうです。
 
 懸命のリハビリで、少し言語に後遺症が残っていましたが、右半身のまひも改善し、いまは、府中市の障害者の作業所に通っているそうです。
 大企業のエリート技術者だった彼は、メーデーに来るなんて自分でも考えられなかったと言っていました。「価値観が変わった」というのが彼の正直な気持ちでしょう。きょうされんの署名を集めて歩くI・I君。
 頑張ってまた来年も会えますように。
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by yoko_sato_jcp | 2011-05-17 23:30

前回ブログ更新から、1か月が経ちました。久しぶりにパソコンに向かいました。

 桜の季節も過ぎ、新緑におおわれた遠くの風景を眺めながら、少々風邪気味で、熱っぽい私は、この1カ月を思い起こしています。
 
 大震災で亡くなった方が1万5千人を超えました。いまだに行方が分からない方が9千500人。11万人の方々が避難されておられます。
 連休中、岩手県出身の夫は、いてもたってもいられず救援ボランティアに行きました。陸前高田に行きたかったようですが、交通のアクセスが悪く、気仙沼でボランティアをしてきたようです。気仙沼には私の大学時代のゼミ仲間がいますが、無事なのかどうか…
 
 福島県の原発被災地域から町田に避難されている方も相当おいでになるようです。
 終息のつかない原発事故。一時帰宅できても、本当に故郷に帰れるのはいつになるのでしょう。
 
 連休中に、叔父がなくなりました。今年、80歳になるところでした。肺がんで、片肺は機能しなくなり、24時間酸素が欠かせず、それでも自宅でという本人の希望で、、叔母と私のいとこが夜も寝られないような看病を続け、お医者さんの往診を頼んで自宅療養をしていたのですが、5月3日の日に亡くなりました。電話口で声を聞きたいと思い電話した時は、立川が計画停電のさなかで、自家発電に切り替えるために右往左往していたので、声は聞かずじまいでした。
 前日お見舞いに行ったときは、話すことはできなかったけれど、話しかけると聞こえていたようでした。
 私とは13しか年が違わない叔父で、すぐ近くに住んでいたので、絵や音楽を教わりました。小学校2年生の時、体育を休んでいた私は、叔父に教わった美空ひばりの「越後獅子の歌」の歌詞を教室の黒板に書いて、先生に怒られ、叔父は先生から呼び出されたそうです。
 死ぬほどの病気を何度もくぐりぬけ、「不死身のやっちゃん」と呼んでいたのに、とうとう帰らぬ人になってしまいました。でも畳の上で死ねるなんて、なんて幸せでしょう。

 辛い春でした。
 少し前を向いていかなければと思い、1カ月目で、パソコンの前に座りました。
 
 
 
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by yoko_sato_jcp | 2011-05-15 16:54